修羅のモジュール製作記(番外編) 修羅モノローグ「修羅のモジュール、東京へ行く」の巻 うちわ・ネタではありますが・・ |
■13日午前0時。今日のために昼間ごろごろしていたとはいえ、東京へのモジュール搬送のことを考えると、興奮で眠ることができない。少し睡眠をとって2時半ぐらいに出発しよう考えていたが、どうも眠りにつくことができないようである。外は雨。ええい、考えているより、とにかく出よう。と車のエンジンキーを回す。 ■雨模様の夜の東名高速は見通しが悪くかったが、灯りを消した東京行きの高速バスを次々に追い越しながら、上郷SAで一息。バスから降りた人々が休息するのか、たくさんの人で雑踏のようである。夜中の2時というのにディズニーランドへ行くと思しき家族連れとか、女の子のグループとか、不思議な世界である。ひとりのドライブはBGMにかける音楽が大切である。ジミーさんの愛聴盤であるコールド・ブラッドを入れる。真夜中の高速道路にボーカルの搾り出すような高音が響く。ジミーさんに初めてメールしたのは模型のことじゃなくて、昔のバンドのことのお尋ねと白人ソウル・ミュージックのことだったよなあなどと思い出す。 ■由比ガ浜の漆黒の海に漁船のあかりを見ながら、ふと大学時代には、自分の生活のすべてだったバンドの思い出に浸る。あのころは鉄道模型やるなんて考えもしなかった。ひょっとしたら1975年ごろに高田馬場のビッグ・ボックスの中にあるビクターのスタジオでジミーさんとすれ違っていたかもしれないなあ。サークルできいた「モ・○・○・○」って黒人のように重い音を出すベーシストがいるって噂は、そのときは気に止めもしなかったけれど。 |
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■高速の情報サインボードに「御殿場・大井松田間事故通行止め」という文字が浮かぶ。浜松ぐらいからこのサインが点灯し始めていたが、どうせ事故処理が済めば解除されるだろうとタカをくくっていたのが甘かった。翌日の情報で4人死亡する大事故だったようで2時間たっても解除されなかった、富士川で給油して途方にくれる。「高速から下ろされても道がわからない」という不安。こういう時のためにナビでもつけとくんだった。ともかく裾野というところで下ろされてしまったので、料金所のオヤジから「国道246号」という情報をつかみひたすら走る。空が白み始めてきた。 ■246号で裏から箱根の山を越える、小雨の上に朝霧がでてきた。少し窓を開けると風が冷たい。お腹もすいてきた。後ろに暴走族風のバンパーがへこんだ旧いシャコタン・セドリックがピッタリまとわりつき、ときどきパッシングする。2車線になる前に信号でゼロヨンまがいの急発進して、先に飛び込んだのがいけなかったなーー。トシ考えろよ。対向車の間隔を測ってやりながら何度も横へ寄せて追い越しさせようとしたが、その気なし。「根性ないやつだ。このやろーー」。 |
■腹もすいたしと信号で止まった際に、横にコンビニがあったので歩道のブロックを乗り越えて入る。こういうときHRVの車高は便利だ。暴走族は腹を擦るのを恐れて、もうついてこなかった。 ■前はアコードに乗っていたが、木曽方面や神戸の集まりで六甲の山荘への山道で、アコードの腹やマフラーが地面にがつんがつん当たってしまうので、買い換える時は迷うことなくコイツを選んだ。特に滝越方面の道で原木を積んだトラックに対向すると、幅の狭い車が欲しくなった。といっても軽自動車では高速がたいへん、木曽モジュールやるにはぴったりの車なのである。と自画自賛。ただしラゲッジスペースに横手に入るのはコーナーモジュールか90センチモジュールまでだね。 ■昭島市の岩崎れいるさんの家へ行くのは初めてだが、地図を送っていただいていたので迷わずに到着した。時間は朝6時30分。ドアホンを鳴らしてでてきてくれるだろうか、と車の中で7時になるまでしばらく待つことにした。雨足が強くなってきた。
「夢にまで見たトーキョー砂漠のオアシス、軽田子だーー」。 ■ 狭い道に車を乗り入れると、驚いたことに「安曇野組」が荷降ろし中ではないかーーやっぱり「ひょっとしたよ。」、ジミーさんに小隊長だ。ジミーさんがカメラを構えていたことは知っていたが、ここへ来る道のりの長さを考えると、もうすっかり舞い上がってしまって、よそ行きの顔でご挨拶なんかできなかった。根が素直なもので、すぐ気持ちが顔にでてしまう。
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ジミーさん写真借用ごっつあんでーーす。 |
■早速、持ち込んだモジュール接続!これがまた、ある程度予想していたとはいえたーーいへん。修羅のモジュールは接続部分も自作なので特にKATOの直線モジュールとの相性はすべてのモジュール中最悪。大反省もいいところです。でも、みんなで汗まみれの悪戦苦闘2時間の後、なんとかつながって機関車が1周したときには、みんなの顔がいっぺんにほころび、自然と拍手が・・知らず知らずのうちに修羅も、皆と一緒に一生懸命手をたたいていました。これまで、ばらばらに製作を続けてきたみんなに連帯感が生まれた瞬間でした。こういう感動を共有できたことは、ものすごい幸せです。 | |
■集まる前に、ちょっとしたことで意見を闘わせたこともありました。でもそれってみんなが真剣な証拠。バンドを通してひとつの音楽を集団で作ってきた修羅やジミーさんにとっては、そういうことって当たり前なのです。バンドって個人個人技量が違うなら、絶対に一番下手な人のレベルでしか全体の音が鳴らないのです。だからメンバーそれぞれがきついことも言う。でもそれで個人個人がスキルアップしていくのです。仕事でもチームワークってよくいいますけれど、個人の能力ではなくて置かれた環境や運が左右する場合も多く、大学時代にスコア・アレンジとか音楽プロデュースを勉強した経験のある僕にとっては、バンドの方が比較にならないほどシビアですね。 ■音楽でいうなら、今回最初の音合わせが済んでKMCが木曽谷という曲を奏でるひとつのバンドなりグループに変身したと思えるのです。 |
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モジュール接合会で昼食にふるまわれたシェフの特製木曽カレー。長い時間煮込んであって、めちゃくちゃ美味かった。「これを食べるために東京へ行った。」って言ってもいいかな(笑) | |
■KMCの16人という数は、ちょうど小さなジャズ・オーケストラぐらいの規模です。音楽のスコア・アレンジの世界でいえばトランペット・サックス・トロンボーンの管楽器が9人ぐらいで、ピアノ・ギター・ベース・ドラム・パーカッションでリズム隊5人ぐらいの規模に相当しますね。これくらいのバンドの音を作るには、「共通のことば」としての五線譜をそれぞれに追わせながら、まず流すのをやってから、徹底的にリズムを作り込みます。いくら個人の技量があってつまらない顔していたとしても、それには従わせませす。それからが音のつくりどころ。でも1人メンバーを加えたり、欠けたりするだけで、もう一度音作りは逆戻りしてしまうことを何度も経験しました。 ■メンバーのリズムが譜面どおりにあってきたところで、トップのメロディの抑揚とかアンギュレーションとかつけて「譜面どおり」をあえてぶち壊す。ソロのアドリブなどにシノギを削りながら、バンド全体で魅力的で刺激的な対話やダイアローグを本番で験して、さらにノリが加わる。メンバーそれぞれが個性的であればあるほど、できる音楽は光を増してきます。 ■KMCのモジュールがNGJでも神戸でもないところは「はじめから珊瑚祭という場で人に見せることを目的としたモジュール」であるところです。モジュールを経験したことの無い人が練習するメソッドではなくて、人に聞かせる音楽をリサイタル・コンサートでやるようなものです。初めて作る人も経験のある人も一緒に舞台に立ってデビューするようなものだよね。 ■おりしも11月2日の会場は中野サンプラザ!ここってコンサートで何度も行きました。ヤマハのアマチュアバンド・コンテストの全国本選大会もここだったような。修羅にとってはここのホールの舞台に立つのは夢でした。 |
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■11月中野サンプラザで個性あふれる スーパー・セッション・グループ 木曽モジュール倶楽部バンド デビュー! みんな一緒にビッグな夢みようぜ (えーちゃんじゃないって) 東京・中野レストラン・カルタゴにてKMCめんばーず(神戸手前さん撮影) |
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■帰って仕事行きましたが、仕事にならず。やはり体は正直です。 情けないことにしばらく修羅、休養します。エネルギーためて修羅も一杯もらった刺激を形にするぞーー。 |